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Vtuber明智光秀による歴史資料解説
亀岡ゆかりの戦国武将、明智光秀がVtuberになって、古文書などの歴史資料を紹介します‼
短い映像で、わかりやすく解説しています。
(家庭学習支援映像 制作・著作/亀岡市・亀岡市教育委員会)
Vtuber明智光秀による歴史資料解説
第1回 明智光秀画像(本徳寺所蔵)
- 明智光秀は、美濃国(岐阜県)の出身と言われており、織田信長に仕えていました。
この画像は、光秀が討たれてから約30年後の慶長18年(1613)に描かれたと考えられています。
第2回 「針薬方」(熊本県立美術館所蔵)
- 明智光秀は、本能寺の変で織田信長を討った人物として有名ですが、前半生については謎につつまれていました。しかし、この「針薬方」という資料の発見によって、光秀が永禄9年(1566)、彼が30代後半のときに近江国(滋賀県)にいたこと、幕府の家臣たちと親しい関係にあり、医薬の知識があったことなどが、わかってきました。
第3回 「明智光秀・豊臣秀吉ら連署状」(大阪城天守閣所蔵)
- この文書が出された永禄13年(1570)、明智光秀は、室町幕府将軍足利義昭に仕えるいっぽうで織田信長にも仕えていました。
- この連署状は、京都にあった曇華院という寺院に対し、明智光秀や木下秀吉(のちの豊臣秀吉)が、織田信長の出した朱印状の内容を伝達するものです、本来は、名前のある明智光秀ら4名全員のサイン(花押)があるはずですが、この文書には秀吉のサインしかありません。急いでいたために秀吉しかサインできなかったのか、または曇華院が秀吉のサインだけ満足したのか。実際のところはわかりませんが、サインのあり方を考えるうえでおもしろい史料です。
明智光秀・豊臣秀吉ら連署状<外部リンク>