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光秀公のまち > 第9回 明智光秀と長沢氏
ページID:0001299 2021年7月12日更新

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第9回 明智光秀と長沢氏

第9回 明智光秀と長沢氏の画像亀岡市と大阪北部を結ぶ国道423号線の途中、法貴峠の先にある西別院町笑路集落北側の松尾山山頂には笑路城と呼ばれる城がありました。この城は長沢氏の居城で、亀岡盆地から摂津へ通じる摂丹街道に隣接しており、交通の要衝でもありました。長沢氏とは、もともとは武蔵国中沢郷の出身であり、「長沢」とも「中沢」とも呼称したといいます。
慶長19(1614)年に記された「長沢重綱 倅又太郎へ遺書」という史料には、天正期に明智光秀が笑路城を攻めた際に、攻めきれず坂の途中で引き返したという記述が見られます。法貴峠の旧道には「明智の戻り岩」と呼ばれる大きな岩があり、この呼び名の由来として、光秀が羽柴秀吉の援軍として中国地方に向かう途中、ここから引き返して本能寺に向い、主君織田信長を討ったという話があります。しかし、前述したように、光秀が峠の先にあった笑路城を攻める際に、この岩のために引き返したことから、この名がついたという話の方が有力なようです。
光秀のいくつか書状の宛先には長沢氏の名前が現れ、亀山城普請や材木の運搬に携わっていたことがわかり、後に長沢氏は光秀の味方になっていったのでした。

典拠 「小畠文書」(天正5年)正月晦日付、明智光秀書状
「小畠文書」年未詳7月4日付、明智光秀書状

画像 笑路城跡(西別院町笑路)昭和52年発掘調査時

[亀岡市文化資料館執筆]

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