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光秀公のまち > 第8回 明智光秀と余部城
ページID:0001298 2021年7月12日更新

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第8回 明智光秀と余部城

第8回 明智光秀と余部城の画像

亀岡市で、明智光秀ゆかりの地と言えば、亀山城とならんで余部城(余部町)を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
余部城の成立は古く、有名な応仁の乱の頃まで遡ります。亀山城は、明智光秀が丹波に入った天正5(1577)年頃に築城されたと考えられるので、余部築城の時期は亀山城よりも100年以上前のことと言えます。
では、亀山城築城後、余部城はどうなったのでしょうか。天正6年頃には、明智光秀が、家臣の小畠永明に対して「田中方より人質をうけ取って余部まで来るように」や「明日には余部近所まで来るように」などと命じていることから、亀山城築城以後も、余部が軍事的拠点として重視されていたことがわかります。
ただし、この段階では余部は「余部」とだけ登場し、「城」の記述が見えなくなることから、居城としての機能は、余部城から亀山城へ徐々に移っていった可能性があります。いずれにしても、余部城は戦国時代の亀岡市域を語る上で重要な城郭であったと言えるでしょう。

史料

  • (天正6年)八月十五日付小畠永明宛明智光秀書状
  • 年未詳卯月十二日付小畠永明宛明智光秀書状

画像 余部城跡

[亀岡市文化資料館執筆]

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