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第7回 明智光秀の協力者・野々口西蔵坊
明智光秀の丹波攻めに際して、丹波国内では光秀に協力した人たちもいました。そのひとりが野々口西蔵坊という人物で、宮前町にある金輪寺の山伏であったといわれ、織田信長の事績を記した『総見記』には「本目ノ山伏」と記されています。
西蔵坊は、丹波攻めに際して光秀の指令を現地へ伝える役割や、木材を河原尻村から保津川端に運搬するなど、光秀の丹波攻略や統治に積極的に関わっていました。
また、信長の家臣の村井貞勝が京都四条大橋の橋柱を「西蔵坊之山」から運搬するように小畠左馬進へ命令していることから、西蔵坊は丹波で山林を管理していたことが推測でき、山伏であったということからもその地域を掌握していたのかもしれません。
東本梅町の楽音寺に伝わる薬師如来坐像の像底・光背裏には「丹波国船井郡醫王山楽音寺御本尊七条大佛師宮内卿法印康清作、右施主者野口西蔵坊豪淵」と墨書されており、この像が西蔵坊の依頼で作られたことがわかります。作者の康清は、羽柴秀吉が大徳寺総見院に奉納した信長像を制作するなど、当時の有力な京仏師のひとりであり、西蔵坊はこのような人物とも繋がっていたのでした。
典拠 「小畠文書」(天正6年)
11月15日付、明智光秀書状
「小畠文書」年未詳7月4日付、明智光秀書状
「谷森建男氏所蔵文書」年未詳9月3日付、村井貞勝書状
画像 金輪寺(宮前町宮川)
[亀岡市文化資料館執筆]