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光秀公のまち > 第6回 明智光秀と馬路・余部
ページID:0001296 2021年7月12日更新

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第6回 明智光秀と馬路・余部

第6回 明智光秀と馬路・余部の画像第6回 明智光秀と馬路・余部の画像明智光秀と馬路・余部前回までの記述のとおり、天正3(1575)年から明智光秀の丹波進攻が始まりますが、このころ、亀岡市域の「馬路」「余部」の地名が史料上に出てきます。その史料とは、(天正3年)8月21日付で家臣の小畠永明に宛てた明智光秀書状です。書状には、小畠永明が負った傷を心配しながら、北陸地域での本願寺一向一揆との戦が終わり次第、丹波攻めにかかると書かれています。そして、追申部分に「馬路・余部在城の衆へ、其元油断なく馳走候への由、申送りたく候」とあります。現代語訳すれば、「馬路・余部在城の衆」に対して、そちらも油断なく働くようにと申し送ってください、くらいの意味でしょうか。問題は前半の読みで、ふつうに読めば「馬路城と余部城に在城している軍勢」となり、当時の亀岡市域には、余部城と馬路城があったということになります。余部城(写真)は有名ですが、さて「馬路城」とはどこでしょうか。当時の「城」は、堀や塀などで周囲を囲んだ集落空間も指していたと言われており、だとすると、馬路の集落を指して「馬路城」と呼んでいた可能性が高いと考えられます。

史料 (天正3年)8月21日付小畠永明宛明智光秀書状
画像 余部城跡

[亀岡市文化資料館執筆]

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