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光秀公のまち > 第5回 明智光秀VS荻野悪右衛門
ページID:0001295 2021年7月12日更新

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第5回 明智光秀VS荻野悪右衛門

第5回 明智光秀VS荻野悪右衛門の画像天正3(1575)年、織田信長の命令により、明智光秀は内藤・宇津氏討伐を目的に丹波攻めを開始します。その際、信長は北桑田郡の川勝継氏や船井郡
の小畠左馬助に対して、光秀に協力するよう要請しました。
さらに、同年10月に片岡藤五郎宛に出された信長の朱印状には、「荻野悪右衛門を退治するために、光秀を派遣する」と記されています。荻野悪右衛門は実名を直正といい、氷上郡を中心に勢力を誇った赤井家から荻野家の養子に入りましたが、叔父である黒井城(兵庫県丹波市)の荻野秋清を殺害して城主になりました。また、直正は甥の赤井忠家が幼少であったために後見し、赤井家の勢力圏も実質的に支配していました。
丹波国内での攻撃対象は、内藤・宇津氏から黒井城の荻野直正になり、光秀はより強大な国人を相手にしていくことになりました。当時光秀は、国内の百姓らの支持を得るため、質物を無償で取り戻すことを認めたり、未進年貢を免除する徳とく政令を発布したともいわれ、丹波衆の大半は光秀方に味方したようです。
しかしながら、光秀による丹波攻略は簡単にはいかず、その後長期化していくことになるのでした。

典拠 「小畠文書」天正3年6月17日付、織田信長朱印状写
「新免文書」(天正3年)10月朔日付、織田信長朱印状
画像 黒井城跡(兵庫県丹波市)

[亀岡市文化資料館執筆]

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