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第4回 明智光秀と老ノ坂
天正3(1575)年、織田信長の命をうけて明智光秀が丹波国に攻めてきます。当初、丹波攻めの大将は細川藤孝だったので、明智光秀は軍の中心というよりも、あくまで細川氏の加勢として丹波国攻めに参加していました。では、明智光秀はどのルートを通って、京都から丹波国へ攻めてきたのでしょうか。すぐ想起されるのが、洛西から老ノ坂を通って余部城に至るルートですが、丹波国での初戦の相手が、宇津(現在の京都市右京区京北宇津)に拠点をおく宇津氏であったことは考慮する必要があります。
というのも、宇津へ攻めるのであれば、老ノ坂を通るのではなく、拠点のあった京都から北へ向かい、長坂口から鷹峯、杉坂を越えて宇津へ至るルートを使う方が近道です。
事実、このルートは戦国時代によく使われており、丹波国守護代内藤氏も宇津に拠点を持ち、守護細川氏もこの辺りへ頻繁に移動していました。
こう考えると、明智光秀が天正3年にはじめて丹波国へ入ってきたルートは、長坂口?宇津へ至る道だったと言えそうです。
今回使用した史料 天正3年6月7日付織田信長朱印状
(『増訂織田信長文書の研究』
画像 老ノ坂旧峠
[亀岡市文化資料館執筆]