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光秀公のまち > 第3回 坂本城主明智光秀
ページID:0001293 2021年7月12日更新

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第3回 坂本城主明智光秀

第3回 坂本城主明智光秀の画像明智光秀は織田信長の家臣になると、政治・軍事的手腕や文化的教養を認められ重用されていきます。光秀は幕府や朝廷(公家)との交渉役を担い、また和歌・連歌・茶の湯などの教養をもつ文化人でもありました。光秀は朝倉攻めや比叡山焼き討ちに従軍し、元亀2(1571)年には近江国(滋賀県)志賀郡を与えられ、坂本(大津市)を本拠にして琵琶湖岸に坂本城を築きました。現在では残っていませんが、天守をもつ本格的な城郭であったといわれています。また城内から船を乗り出すことができ、信長が造った安土城へも船で向かったという記録があります。
坂本には西教寺という光秀ゆかりの寺院があります。このお寺は比叡山焼き討ちの際に災禍を蒙りましたが、その後坂本城主になった光秀によって復興されました。総門は坂本城から移築されたものと伝えられており、戦いくさで犠牲になった家臣たちの供養のためにお米を寄進した光秀の書状や光秀が寄進した陣じん鐘がね、光秀や妻熙ひろ子をはじめとする明智一族のお墓などが残されています。信長の家臣として次第に重要な役割を担っていった光秀は、天正3(1575)年に信長の命令を受けて、丹波攻略に乗り出すことになります。

典拠 「兼見卿記」天正元年6月28日条 天正10年正月20日条「西教寺文書」元亀4年5月24日付、明智光秀書状
画像 明智光秀像(滋賀県大津市)

[亀岡市文化資料館執筆]

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