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光秀公のまち > 第22回 明智光秀と畑野町
ページID:0001292 2021年7月12日更新

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第22回 明智光秀と畑野町

第22回 明智光秀と畑野町の画像

亀岡市の西部を構成する畑野町には、西山神社や法常寺など江戸期以降の建造物が残り、「サンヤレ」と呼ばれる火伏の行事などが今も続いています。とりわけ法常寺は、後水尾天皇をはじめとする歴代天皇や公家の崇敬を集めた由緒正しき寺院のひとつです。
明智光秀がこの畑野町域に来た事実は現在のところ確認できていませんが、光秀が丹波に攻めてくる以前、戦国時代には畑野町域に「千ケ畑構」と呼ばれる城郭があったようです。
永禄6(1563)年と推定される八木城主内藤宗勝が湯浅氏へあてた書状には「新江之両要害、千ケ畑之構、去三日ニ落居候」とあり、ついに千ケ畑城も落としたことを報告しています。
内藤宗勝は、松永久秀の実弟長頼にあたり、三好長慶・松永久秀の畿内における権力拡大に伴い丹波へ送り込まれた人物で、永禄年間には波多野氏や宇津氏などの敵対勢力の掃討戦を進めていました。先の書状は、この戦争に関する内容と思われます。
千ケ畑には宗勝に対抗する勢力が城を構えていたことがうかがえるのです。

今回使用した史料
(永禄六年)十二月六日付湯四宛内藤宗勝書状

画像
畑野町に残る千ケ畑城址

[亀岡市文化資料館執筆]

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