ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
光秀公のまち > 第20回 明智光秀と本能寺の変
ページID:0001290 2021年7月12日更新

本文

第20回 明智光秀と本能寺の変

第20回 明智光秀と本能寺の変の画像

天正10(1582)年5月、明智光秀は徳川家康の饗応役に任じられていましたが、織田信長から中国地方の毛利方と戦っていた羽柴秀吉の援軍として出陣を命じられ、近江坂本城から亀山城に入りました。そして、戦勝祈願のために愛宕神社に参詣しています。この時光秀は、信長に対する謀反への迷いからか、社前で何度もくじを引いたともいわれています。また、愛宕神社にある威徳院で連歌師の里村紹巴らと百韻連歌会を催し、そこで光秀が詠んだのが信長追討の意志の表れとされる「ときは今、あめが下しる五月哉」の有名な句です。6月1日の夕刻、光秀は1万3千の兵を率いて亀山城から出陣しました。山陰道を通り、丹波と山城国境にある老ノ坂峠を越えて、中国地方へは向かわず桂川を渡り、2日未明信長のいる本能寺を襲撃し、さらに信長の息子信忠を二条御所に追い込みました。信長を討つことに成功した光秀でしたが、その後細川藤孝・忠興親子や筒井順慶などから協力を得ることができず、山崎の合戦で秀吉に敗れることになります。光秀は坂本城を目指しましたが、「兼見卿記」によると醍醐辺りで一揆に討ち取られたと記されており、帰城途中に最期を遂げたのでした。

典拠
「信長記」

画像
「信長記」(岡山大学附属図書館所蔵)

[亀岡市文化資料館執筆]

皆さまのご意見をお聞かせください

お求めの情報が充分掲載されていましたでしょうか?
ページの構成や内容、表現はわかりやすかったでしょうか?
この情報をすぐに見つけられましたか?