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光秀公のまち > 第2回 明智光秀の出自
ページID:0001289 2021年7月12日更新

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第2回 明智光秀の出自

第2回 明智光秀の出自の画像明智光秀はいつ生まれたのでしょうか。今から500年くらい前の永正13(1516)年享禄元(1528)年など諸説あり、残念ながらはっきりとした年はわかっていません。また、若い頃にどこで何をしていたかも史料が残っていないことからほとんど不明です。ただ、当時の公家の日記に、光秀が美濃国(現岐阜県)にいる親戚と連絡を取っていたことが記されており、光秀は美濃国の出身だといわれています。岐阜県には明智という地名があり、伝承ですがゆかりの地として「明智城跡」や「光秀産湯の井戸」などがあります。
謎の多い若き光秀ですが、早い時期の光秀の動向がわかるものとして、永禄8(1565)年頃、高嶋田中城(現滋賀県高島市)で籠城している時に、薬を調合していたという記録が見つかっています。その後、越前国(現福井県)の朝倉氏に仕え、室町幕府最後の将軍足利義昭が朝倉氏のもとに身を寄せた際に出仕しました。
光秀が織田信長の家臣になって頭角を現すのはもうちょっと後のことで、当時の人の年齢からいうと遅咲きということになります。大河ドラマでは、若い頃の光秀を描くといわれていますが、謎の多い部分ですので、どのように描かれるのか楽しみですね。

典拠 「兼見卿記」元亀3年
12月11日条、「針薬方・獨見集」(米田家文書)
画像 明智光秀産湯の井戸(岐阜県恵那市)

[亀岡市文化資料館執筆]

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