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光秀公のまち > 第18回 丹波決戦
ページID:0001287 2021年7月12日更新

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第18回 丹波決戦

18丹波決戦

天正3(1575)年、明智光秀は主君織田信長の命令で丹波進攻を開始します。しかしながら、八上城主の波多野秀治に裏切られるなど、その戦いは苦戦を強いられ、丹波攻略は長期化していくことになります。
敵方との戦いに苦しめられた光秀は、軍事拠点として、亀山の地に城を築きます。当時の城の状況・規模などについての資料は少なく、詳しいことはわかっていませんが、天正5年から継続的に丹波の国人を動員して築城を進めていました。
丹波攻略を成し遂げようとする光秀の意志は強く、八上城攻めに際して四方に堀を巡らし、塀や柵で囲い、獣が通る隙間もないように包囲網を作ったといい、波多野軍は籠城により4,500人が餓死したともあります。
苦戦しながらも宿敵波多野秀治の八上城を落とすことに成功し、天正7年6月1日に波多野兄弟は捕えられると亀山城に連れて行かれ、その後安土城下の慈恩寺で処刑されました。※関連展示について4面に掲載しています。

典拠
天正7年4月4日付、明智光秀書状『兼見卿記』同年6月1日条

画像
丹波八上高城山合戦図(誓願寺所蔵)

[亀岡市文化資料館執筆]

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