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光秀公のまち > 第17回 明智光秀と「ほんめ」
ページID:0001286 2021年7月12日更新

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第17回 明智光秀と「ほんめ」

17ほんめ

明智光秀のころの史料に、「本免」という地名が出てきます。とくに吉田神社祠官の吉田兼見が書きついだ日記『兼見卿記』に出てくる一節が有名です。
明智光秀は、天正7(1579)年8月に黒井城を落城させ、織田信長から「度々の高名、名誉比類なき」と激賞された後も戦後処理のために丹波国にとどまり、10月には柏原(兵庫県丹波市)で新城を築城していました。
明智光秀と親しい関係にあった兼見は、柏原への陣中見舞の行き帰り(11日と13日)に「本免一宿」をした、と日記に記しているのです。
では「本免」とはどこでしょうか。柏原に向かう旧篠山街道沿いですから、現在の本梅町とは位置がずれます。決め手はないですが、おそらく現在の宮前町~東本梅町のあたりではないでしょうか。戦国期まで、宮前町を中心とする一帯は、野口荘という大荘園の領域でした。「本免」とは荘園の中心部分を意味しますから、幹線道路も通るこの地域は、まさに野口荘の中心だったのでしょう。
当然、交通の要衝として町も栄え、商人らも多く集まったでしょう。そんな地だからこそ、兼見は「本免」の地に二泊もしたのではないでしょうか。

今回使用した史料
『兼見卿記』天正7(1579)年10月11日~13日条

画像
「本免」推定地域

[亀岡市文化資料館執筆]

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