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光秀公のまち > 第16回 明智越え
ページID:0001285 2021年7月12日更新

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第16回 明智越え

16明智越え

保津町から京都市右京区水尾に至る、保津川左岸の尾根沿いの山道は、亀岡から愛宕山へ登るためのルートのひとつであり、「明智越え」と呼ばれています。明智光秀が主君織田信長を討つために本能寺へ向かう際に、この道を通ったことから「明智越え」と呼ばれるようになったという説もありますが、光秀が愛宕神社に参詣するためにしばしば通ったことから、この呼び名がついたと考えられます。
愛宕神社は、山城と丹波の境にそびえ立つ愛宕山上に鎮座しており、現在は火伏せの神様として知られています。中世においては、本地仏として本殿に祀られていた勝軍地蔵が諸国の武士たちから「いくさの神様」として信仰を集め、光秀もこれを信仰していました。
光秀と愛宕神社との関係は深く、光秀が天正3(1575)年から始まる丹波国攻略に向けて出陣した際に、いくさに勝てるようにと愛宕神社に戦勝祈願を依頼した書状が数通残されています。これは、信長から任された重要な丹波攻略を成功させるという光秀の強い意志の表れと思われ、戦勝祈願のお礼として勝ち取った土地や金銭などを愛宕神社に奉納していたこともわかります。

典拠 天正3(1575)年9月25日付、天正7年(1579)8月24日付、明智光秀書状

画像 明智越え

[亀岡市文化資料館執筆]

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