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第15回 明智光秀と保津川水運
亀岡市を代表する観光資源である保津川水運。近代になってトラック輸送に代替されるまで、京都までの材木輸送における重要な役割を担っていました。
保津から嵐山に至る筏流しは、織田信長が上杉謙信へ贈った「上杉本洛中洛外図屏風」にも描かれ、戦国時代にも京の風物詩だったことがうかがえます。
では、明智光秀は保津川水運とどのような関わりがあるのでしょうか。注目されるのが天正5(1577)年7月4日に、光秀が小畠氏ら家臣に対して、材木を「河原尻より保津川端」まで届けるよう命じた書状です。光秀が私たちと同じように「保津川」と呼んでいることにまず親近感を覚えますが、ここから光秀が保津川水運を利用していたことが明らかになります。問題はこの「保津川端」の場所ですが、小畠氏が勝林島に所領をもっていたことを考えると、宇津根を指していると考えられます。
材木の運び先はどこでしょうか。この時期亀山城が築城の真っ最中であり、宛先の家臣が城普請に関わるメンバーであることから、水運によって亀山へ運ばれた可能性が高いと思われるのです。
典拠 天正5(1577)年7月4日付西蔵坊・小畠永明・長沢又五郎宛明智光秀書状
画像 保津川
[亀岡市文化資料館執筆]