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光秀公のまち > 第14回 明智光秀と並河氏
ページID:0001283 2021年7月12日更新

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第14回 明智光秀と並河氏

14並河城

大井町には、並河掃部介易家をはじめとする並河氏の居城、並河城がありました。並河城は、願成寺川と犬飼川の合流地点付近の標高95メートルの河岸段丘上に築かれた平城でした。並河氏は、鎌倉時代初期に新補地頭として下総国から相馬小太郎義胤の二男宗義が当地に補任され、館を構えたことに始まると伝えられています。城跡中核部分は集落より1~2メートル高い土壇状となっており、発掘調査では本丸を取り囲む土塁の基底部や本丸館建物跡とみられる礎石が確認されています。
天正3(1575)年6月、主君織田信長の命令を受けて、明智光秀による丹波進攻が始まります。信長は、内藤氏や宇津氏を討つために、光秀を遣わすことを川勝継氏や小畠永明と同様に並河因幡守・同兵庫介にも伝え、光秀の下で忠節を尽くすよう求めています。
並河氏は、そのまま光秀の家臣として活動していき、光秀が小畠永明を余部に呼んだ際には、並河四郎左衛門尉に指示を与えたことを伝えています。また、天正10年6月2日に起きた本能寺の変の後、光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の合戦において、並河易家は光秀方に属して天王山の麓に陣取りましたが、秀吉軍に敗れることになります。

典拠 年未詳卯月12日付、明智光秀書状「小畠文書」

画像 並河城跡全景(平成5年発掘調査時)

[亀岡市文化資料館執筆]

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