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光秀公のまち > 第13回 明智光秀と丹波国分寺跡
ページID:0001282 2021年7月12日更新

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第13回 明智光秀と丹波国分寺跡

第13回 明智光秀と丹波国分寺跡の画像

今から約1,300年前の奈良時代、聖武天皇による詔勅により、現在の亀岡市千歳町に丹波国分寺が築かれました。
国分寺の御堂は、焼失と再建をくり返しながらも中世まで存続しましたが、寺伝によれば、戦国時代に明智光秀の兵火により、残らず焼きつくされたといいます。その後国分寺は江戸時代後期に再興され、現存する本堂や山門などが建てられました。
ところで、明智光秀はいつ国分寺周辺に攻めて来たのでしょうか。
織田信長の伝記史料である『信長公記』には、天正6(1578)年4月の項に、明智光秀が滝川一益や丹羽長秀とともに荒木氏を攻めたことが記されていますが、荒木氏の城は園部にあったともいわれており、このときに国分寺周辺を通ったかもしれません。また、これより先、天正3(1575)年7月には桐野河内(園部町あたり)に在陣しており、このときに通ったのかもしれません。
いずれにしても、丹波国分寺は園部地域に進攻するうえで要の地にあり、光秀が通った可能性は高いといえます。光秀の兵火による焼失という伝承は、史実の一端を伝えていると考えられます。

出典 天正3(1575)年7月24日付明智光秀書状

画像 丹波国分寺跡

[亀岡市文化資料館執筆]

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