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第12回 明智光秀と神前北山城
「神前北山城」と聞いて、どこの城?と思った人もいるかと思います。神前北山城とは、実は八木城の別名です。
八木城は、南丹市の八木町域内にあると思われがちですが、実は本丸や主要縄張りの南西側半分は亀岡市域に入っています。神前北山城は、亀岡市側から八木城を示す場合に使われてきた名称です(以下、八木城で統一)。
八木城は、周知のとおり、丹波国守護代内藤氏の拠点として知られています。使用時期については諸説ありますが、内藤宗勝の時期から居城として整備・拡張され、内藤ジョアン(貞弘)の時期に、あの斉藤道三の稲葉山城と同じように、山頂に居住スペースが築かれたものと推測されます。
明智光秀は、天正3(1575)年7月頃、八木城を攻めて内藤ジョアンを敗走させます。しかしこれで八木城は廃城となったわけでなく、その後、光秀は山内衆(京丹波町の領主)に対して材木を八木城麓へ運ぶよう指示するなど、八木城を自らの拠点として使用しました。
光秀は交通の要衝にあった八木城を無視できず、石垣を据えるなどして再整備をしたと考えられます。
史料 年未詳3月7日付山内衆宛明智光秀書状
画像 八木城跡遠景
[亀岡市文化資料館執筆]