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光秀公のまち > 第10回 明智光秀と勝林島
ページID:0001279 2021年7月12日更新

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第10回 明智光秀と勝林島

第10回 明智光秀と勝林島の画像河原林町の勝林島は、近代以来の建造物も多く残り、家々を囲む石垣や生垣の景観とともに、歴史的な風情が感じられる集落です。
勝林島にある極楽寺は、14世紀に在泉希譲の開基と伝えられ、同時期の作とされる涅槃図が伝わっています。勝林島の地域は、南北朝時代から中津河氏が領主として支配していたため、中津河氏が極楽寺の再興に関わった可能性もあります。このように勝林島は、中世以前からの歴史と文化を伝えています。
明智光秀と勝林島との関係がうかがえるのは、天正3(1575)年の丹波攻め以降です。
当時、勝林島には明智光秀の重臣だった小畠氏の所領がありました。天正10(1582)年7月に小畠氏が自らの所領を申告した文書では「参百弐拾石桑田郡勝林島村之内」とあり、小畠氏が勝林島村のうち320石を知行していたことがわかります。
ただし、ここで勝林島村「之内」とあるのがポイントで、勝林島には小畠氏以外の領主や寺院などの所領もあったことを示しています。明智光秀は、家臣の知行地を細分化し、また相給地を設けることで家臣の権力が拡大するのを防いでいたようすが垣間見えるのです。

史料 天正10年7月20日付小畠当知行分指出連署起請文

画像 勝林島・極楽寺

[亀岡市文化資料館執筆]

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