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光秀公のまち > 第1回 明智光秀と「亀山」
ページID:0001278 2021年7月12日更新

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第1回 明智光秀と「亀山」

第1回 明智光秀と「亀山」の画像私たちの住むまちは、いつから亀岡と呼ばれたのでしょうか。
亀岡は、明治2(1869)年まで亀山と呼ばれていました。しかし、当時の藩主松平信正が同年6月19日に東京に呼ばれ、知藩事の職に任命される際に、政府より「亀岡と改称せよ」と命じられたのが始まりといわれています。亀岡の名前は明治政府によって決められたと言えるでしょう。
では「亀山」と呼ばれたのはいつからでしょうか。諸説ありますが、一次史料(※)による限り、明智光秀が丹波を攻めたころという説がもっとも有力です。
これは、亀山の地名が初めて出てくる史料が、天正5(1577)年の明智光秀書状であることに基づく見解で、亀山の名付け親は光秀ではないかと考える専門家もいます。
明智光秀が、私たちが住むまちの元々の名付け親だとしたら、今まで以上に親近感がわくのではないでしょうか。
2020年大河ドラマに決まった、明智光秀を主人公とした「麒麟がくる」。明智光秀関連の史料には、亀山のほかに保津や余部といった地名や、宮川や別院出身の武士が出てきます。本シリーズでは、これら亀岡市に関係する場所や人物と明智光秀との関係について、一次史料に基づいて、歴史的事実を描いていきたいと思います。
※一次史料…同時代に作成され、使われた史料

典拠 「形原松平家譜」、正月晦日付明智光秀書状(大東急記念文庫所蔵)
画像 明智光秀公肖像(本徳寺所蔵)

[亀岡市文化資料館執筆]

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