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History5 光秀出生の謎と、正室・熙子について
光秀出生の謎
丹波において現在につながる礎を築き、戦国の歴史を大きく動かした明智光秀公。
戦国武将の中でも、最も知られている一人といっても過言ではありません。
しかしながら、光秀公がいつ生まれ、どのような幼少期・青年期を経て歴史の表舞台に立つに至ったかは、明らかではありません。そして、「本能寺の変」を起こした真意も謎なまま、この世を去ったのです。
光秀公の家系については、数々の説があります。美濃の国、清和源氏、土岐氏の支流にある明智氏の出身であると言われています。しかし、光秀公の出自が記されている史料に登場する父親の名前が一致しておらず、また父親の名前すら伝わらないともいわれています。
生年は同時代の史料からは判明せず、後世の史料である「明智軍記」では享禄元(1556)年、「当代記」では永正13(1516)年といった2つの説があります。また、「兼見卿記」にある記述から、天文9(1540)年以降と推定する説もあります。
出生の地についても諸説あり、現在の岐阜県恵那市明智町、可児市、山県市美山町に伝承や史跡が残っています。
光秀公が歴史の舞台に登場するのは、朝倉義景のもとに身を寄せていた足利義秋(義昭)を上洛させるための仲介役として織田信長に出会った頃からになります。
明智光秀画像(本徳寺蔵)
水色桔梗
明智家の家紋である「水色桔梗」。桔梗紋は、美濃の土岐家とその一門の代表的な紋です。土岐家発祥の地である「土岐」という地名は、桔梗の古語である「オカトトキ」(岡に咲く草)の意味で、このトトキが咲くことが由来となり、そのため土岐家は桔梗を家紋にしたと言われています。中世における家紋は、ほとんどが白と黒で表されている中で、水色で彩られていることが桔梗紋の特徴であり、大変めずらしいことで知られています。
また、桔梗の花言葉は「誠実な愛」。妻や家族、家臣や領民を愛した光秀公の優しさを表すかのようです。
水色桔梗画像
正室・熙子
光秀公の妻である熙子は、生年は不詳ですが、織田家家臣である妻木広忠またはその弟である妻木範熙のどちらかが父親であると言われています。
光秀公に熙子が嫁ぐこととなった時、熙子は時を同じくして疱瘡を患い、顔に痘痕が残ってしまいます。婚約を破断にしたくなかった妻木氏は光秀公に嫌われることを恐れ、熙子に似ていた妹・芳子を熙子の身代わりに立てますが、光秀公はこれを見破り、熙子を正室として迎え入れました。
二人が結婚してほどなく、光秀公は流浪の身となり、貧しい暮らしを強いられていました。そのような中で光秀公が大切な歌会を催すこととなり、その資金がなく困っていると、熙子は自身の美しい黒髪を売ってお金を用立て、光秀公を助けたと言われています。
陰で支え続けた熙子を光秀公は生涯愛し続け、戦国武将としては珍しく側室を置くことなく、三男四女と仲睦まじく暮らしました。