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History3 光秀の知られざる功績について
国人衆らを家臣として任用
世間一般では本能寺の変を起こした逆臣、三日天下というイメージを持たれがちな明智光秀公。しかし、丹波の地では町の基礎を築き、善政を布いた知将として親しまれています。
内政の手腕も優れていたといわれる光秀公。その実例の一つとして、「国人衆」という中間的支配者を家臣として取り立てた先進的な人材活用術があげられます。鎌倉時代から当時に至るまで、領民は国人衆によって支配され、その国人衆は領主によって支配されるといった構造が続いていました。光秀公はこの古い体制をあらため、その土地のことをよく知る国人衆を任用することで効率的な統治を可能にしたのです。
光秀公の人材抜擢術
さらに、織田信長軍の中でも最大規模の軍団を率いるまで成長した光秀公は能力主義を取り入れ、出自に捉われない人材配置を行います。信長にも通じる手法ですが、光秀公は家臣を大切に扱い、感謝を忘れなかったところに大きく差があります。光秀公は、合戦で討ち死にした家臣を列記するほか、家臣の功を讃える書状の中で手傷を労うなど記録の中からもその情の深さがうかがえます。また、檀徒となった近江国の西教寺に戦死した家臣を弔う供養米を寄進するなど、当時としては珍しい逸話も残っています。
家中軍法
制度の面でも画期的であったのが、18条からなる「家中軍法」の存在です。光秀公が本能寺の変の1年前に制定したといわれており、条文には軍団の秩序や軍役の基準を明確に記しています。軍法が存在していなかった織田家中にあって先例となった光秀の法は他の武将の模範となりました。
統治者としての手腕
城のあり方においても、光秀は独特の考えを反映させています。光秀が領主として築いた亀山城などは、領民と目線を同じくし、その暮らしと一体になる「平山城」でした。戦闘を目的とする「山城」が一般的だった時代において、政務の場として城を捉えた特徴的なものでした。
領民に対しては、経済的な功績として税の免除を行っています。光秀公は、本能寺の変で信長を討った後、京周辺の朝廷や町衆・寺社などの諸勢力に金銀を贈与しました。さらに洛中や丹波に対して地子銭(土地税・住宅税に相当)を永代免除しています。
光秀公の遺徳を偲んで
このように名君として統治を行った光秀の遺徳を偲び、亀岡市では「亀岡光秀まつり」を毎年開催しています。戦国絵巻さながらの勇壮な武者行列が旧城下町を練り歩く、市をあげての春の一大イベントです。公募で選ばれる光秀役などの参加者は首塚が祀られる谷性寺で行われる追善法要と亀山城跡にある宗教法人大本での慰霊祭に参列、光秀に祈りを捧げます。谷性寺ではこのほか、6月に明智家の家紋である桔梗が咲き誇る「ききょうの里」を門前で開催しています。光秀を顕彰するイベントを通じ、偉大な功績はこれからも語り継がれていくことでしょう。
亀岡光秀まつり