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光秀公のまち > History4 知将・光秀の実像とゆかりの人々について
ページID:0001270 2021年7月12日更新

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History4 知将・光秀の実像とゆかりの人々について

心優しき武人

元亀元(1570)年、浅井・朝倉軍が逃げ込んだ比叡山を織田信長が取り囲み、両軍が対峙する「志賀の陣」が起こります。この戦いで信長は弟・織田信治と宇佐山城の森可成を失い、その怒りの矛先は浅井・朝倉軍をかくまった比叡山に向けられました。

比叡山焼き討ちを画策した信長は、宇佐山城に光秀公を配置します。明智光秀公から焼き討ちの準備ができたことを告げられた信長は、近江一向衆の金ケ森城を攻略後に石山本願寺へ向かうと見せかけて比叡山を包囲し、元亀2(1571)年9月、全軍に焼き討ちを命じました。その後、光秀公は比叡山焼き討ちの功労者として比叡山延暦寺の遺領を信長から与えられ、織田家臣の中で初めて居城の築城までも許されました。

一方で、焼き討ちの兵火の中で光秀公は、経典や高僧を自身の判断で助けたと伝えられています。やがて光秀公が坂本城主となると、領内となった比叡山延暦寺を手厚く保護しています。

細川ガラシャ

明智光秀公の三女として生まれた玉子は、16歳の時、織田信長の勧めにより細川忠興の正室となり、子宝に恵まれます。しかし、父である光秀公が起こした「本能寺の変」により、逆臣の娘として冷遇され、丹後の山奥にある味土野に幽閉されてしまい、幼い我が子と離れて苦難の日々を送ります。

幽閉を解かれた玉子は心の救いを求めカトリックに入信し、「ガラシャ(伽羅奢)」の洗礼名を受けます。その後、関ケ原の戦いの時に徳川家についた忠興の不在をついて、石田光成が人質にとろうと屋敷を包囲すると、ガラシャは家臣に槍で胸を突かせ、38歳の波乱に満ちた短い生涯を終えました。

ガラシャは、丹後の地に大伽藍(教会)の建立を願っていたと伝えられています。明治29(1896)年にカトリック宮津教会が建立され、没後約300年が経過しその願いが実現しました。

細川忠興

武将、大名として活躍し、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、現在まで続く肥後細川家の基礎を築きました。父・幽斎と同じく文化人・教養人としても知られており、利休七哲の一人であり、茶道の流派三斎流の開祖でもあります。

妻である光秀公の娘・玉子(細川ガラシャ)の愛情は大変深かったと言われています。

細川幽斎

明智光秀公の盟友で同時期に将軍家に仕え、丹後を平定しました。「本能寺の変」の際、光秀公から味方として軍勢に加わるよう誘われましたが、細川家を守るためにこれを拒絶し、出家しました。歌道の奥義「古今伝授」の相伝者であり、さまざまな芸能や故実にも造詣が深く、当代一流の文化人としても名高い人物であったと言われています。

明智秀満

明智光秀公の重臣であり、出自には諸説ありますが真偽は明らかではありません。

当初、三宅弥平次と称していましたが、光秀公から字をもらい、「明智左馬助秀満」と名乗ったと言われています。光秀公が大きな信頼を置いていましたが、本能人の変の際は、出陣時は秀満にもその真意は知らされていなかったとされており、光秀公のこの出陣が一世一代の大勝負であったことがうかがえます。また、本能寺の変の後、安土城に移り、山崎の合戦で光秀公が敗れたことを知った秀満は急遽、湖水を馬と渡って坂本城に入りますが、包囲されると坂本城に火を放ち自らの手で命を絶ったと言われています。

明智治右衛門

明智光秀公の叔父である明智光久の子で、重臣の1人として活躍したといわれています。

天正5(1577)年、光秀公が丹波過部城と篠山城を攻め落とした後、亀山城に留守居として入城しました。天正7(1579)年、兵糧攻めによる八上城攻略の後、城主として駐屯しました。

本能寺の変では、信長の子である信忠が立て篭もる二条御新造に攻め入りましたが、その際に銃撃にあい重傷を負います。知恩院で療養していましたが、山崎の合戦で光秀公が敗れ、討ち死にした知らせを受け、坂本城に向かいます。そして明智秀満をはじめとする明智一族とともに自ら命を絶ちました。

斎藤利三

美濃の白樫城主、斎藤利賢の次男として生まれます。当初、稲葉一鉄に仕えましたが袂を別ち、縁戚関係にあった光秀公の家臣として迎えられます。明智秀満と並ぶ筆頭家老として明智光秀公に重用され、丹波平定後は1万石を与えられて丹波黒井城主となります。

本能寺の変の後、山崎の合戦では先鋒を務めますが、敗走し、近江堅田で捕縛され六条河原で処刑されたといわれています。

江戸幕府において大きな権威を振るうことになる春日局は、斎藤利三の娘です。

溝尾庄兵衛

明智光秀公の流浪時代からの家臣で、天正10(1582)年、武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うために、信長によって催された饗応において光秀公とともに接待役を務めました。

山崎の合戦後、光秀公とともに坂本城に落ち延びようとしますが、光秀公が落ち武者狩りによって致命傷を負わされると、光秀の命令により介錯を務めたと言われています。

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