History1 丹波攻略と平定の拠点「亀山城」について

更新日:2019年6月19日

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History1 丹波攻略と平定の拠点「亀山城」について

明智光秀公と丹波亀山城の築城

亀岡は江戸時代まで「亀山」と呼ばれ、古くから丹波の政治・経済・文化の中心地でした。そして山陰道の要衝であったことから、天正5(1577)年頃、織田信長の命を受けた明智光秀公が、丹波平定の拠点として丹波亀山城を築城します。
光秀公は、城の周辺に近隣の9カ村の人たちを移住させ、城下町を整備します。現在でも、旧城下町一帯には切妻や京格子の町家が残り、その面影を感じることができます。天正7(1579)年に丹波を平定し、その翌年に丹波国を拝領した光秀公は、信長から「丹波国、日向上働き、天下の面目をほどこし候」と讃えられました。さらに、商人を呼び寄せて本格的な城下町の形成や発展に着手しますが、その2年後に「本能寺の変」が起こります。

威容を誇る五重の天守

亀山城はその後、慶長15(1610)年、岡部長盛の時代に、諸大名を動員して城郭整備を行う「天下普請」により大規模な整備が行われます。その指揮は城づくりの名手・藤堂高虎が務め、ゆがみなく美しい外観の「層塔型」の五重の天守が築造されました。最新鋭の型式で造られたこの天守は、後の天守建造に大きな影響を与えたといわれています。

また、亀山城の堀は内堀・外堀・惣堀と三重になっており、強固に守られていたほか、道路は敵が容易に城内へ近づけないよう、カギ型に折れ曲がるなどの工夫がされていました。今も身近な公園に堀跡が残り、町割(区画)がそのまま維持されているなど往時の様子を伝えています。

明治維新のあと、亀山城は廃城令により解体されますが、現在の所有者である宗教法人大本の手により石垣などが修復されました。一部の石垣には天下普請の際、石の運搬を担当した諸大名が記した刻印を見ることができます。

亀山城天守古写真

亀山城天守古写真(美田村顕教撮影)

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