History2 歴史上最大の下克上「本能寺の変」とは

更新日:2019年6月19日

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History2 歴史上最大の下克上「本能寺の変」とは

戦国最大の事変

織田信長からの信頼厚く、家臣の中でも高い地位に登りつめた明智光秀公。一方で、古くからの家臣であっても容赦なく切り捨てる信長のもとにあって、決して安心することなく日々を過ごしていたことでしょう。

武田勝頼征討の活躍を認められ、駿河国を拝領した徳川家康は天正10(1582)年、謝礼として安土へ参上します。饗応役を任された光秀公は、各地から山海のものを取り寄せ、贅を尽くした宴を準備しました。しかし、その接待の期間を終えることなく突如、饗応役を解任、信長から西国出陣を命じられて坂本城に戻ったといわれます。

天正10(1582)年5月27日、光秀公は戦勝祈願のため、亀山城から愛宕山山頂の愛宕神社を目指します。神社には西国遠征の戦勝を祈願するための参拝であると伝えていたようですが、山頂からは信長の宿所である本能寺がよく見えていたはずです。光秀公はここで、戦の結果を占う神社のくじを2度、3度引いたといい、心中の葛藤が感じられます。

5月28日には、同愛宕山の西坊威徳院において連歌会を開催。これが「時は今あめが下しる五月哉」の発句に謀反の意をこめたとされる「愛宕百韻」です。「あめが下しる」と解釈すれば土岐氏(光秀公)が天下を手に入れると読めることから、興業に参加した里村紹巴は秀吉に責められたと伝えられています。一方で、読群書類従の蓮歌部に収められている愛宕百韻の記録には「あめが下なる」と明記されており、後世の為政者が光秀を悪者にしようと創作した可能性も考えられます。

そして6月1日、午後10時頃に明智光秀の軍勢1万3,000が居城の亀山城を出発、本能寺へと足を進めます。翌2日には光秀の軍勢は山陰道・老ノ坂を越えて沓掛にいたります。未明の桂川畔で光秀は部下たちに信長打倒の意思を示し、「敵は本能寺にあり」の号令を発したといわれています。

老ノ坂越のルートで進軍した光秀公は、最も信頼する重臣。明智秀満に先鋒として唐櫃越のルートを進むよう命じました。
光秀公は事前に、信長を討つことを伝えた家来が逃げ出した場合は、その家来を討つように伝えていましたが、誰一人として本能寺に向かう陣から離れようとはしなかったといわれています。

本能寺の変進軍ルート、光秀の動き

本能寺の変進軍ルート、光秀公の動き

  • ①5月15日~17日、明智光秀公、安土城滞在中の徳川家康の饗応役となる(17日解任)。
  • ②5月17日、光秀公、坂本城に到着。
  • ③5月26日、光秀公、中国出陣のため坂本を発ち、亀山城に入る。
  • ④5月27日、光秀公。戦勝祈願のため愛宕山に参籠する。
  • ⑤5月28日。愛宕山の西坊威徳院において連歌会を催す(「愛宕百韻」)。
    同日、亀山城に帰城。
  • ⑥5月29日、織田信長、安土城を出発。同日、京に入り、本能寺を宿所とする。
    翌6月1日、同地において茶会を開催。
  • ⑦6月1日、光秀公、亀山城を出陣する。
  • ⑧6月1日深夜、光秀軍、山陰道・老ノ坂を越えて京に向かう。
  • ⑨6月2日未明、光秀公、桂川で部下に信長打倒の決意を示す(「敵は本能寺にあり」)。
  • ⑩6月2日、光秀軍、本能寺・二条御所を急襲。信長・信忠父子を討つ。
  • ⑪6月2日午後4時頃、光秀軍、瀬田に到着するも、山岡景隆に瀬田の唐橋を落とされ、同日の安土行きを断念。
  • ⑫6月4日、光秀軍、修復された瀬田の唐橋を渡り、安土城に入城。
    京極高次が長浜城を、武田元明が佐和山城を占領。
  • ⑬6月8日、明智秀満を安土城に残し、光秀公は坂本城に入城。
  • ⑭6月10日、光秀公、洞ケ峠において筒井順慶の軍を待つが到着せず。
  • ⑮6月11日、光秀公、洞ケ峠を去って下鳥羽へ着陣。淀城・勝龍寺城を固める。
  • ⑯6月12日、羽柴秀吉、摂津から天王山に着陣。翌13日午後4時ごろ、光秀軍と戦闘開始(「山崎の合戦」)。午後6時ごろ、光秀軍敗走。
  • ⑰6月13日深夜、伏見の小栗栖において、光秀公討たれる。

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